高齢の大家が直面する賃貸経営リスクと備え

野口 真一(大家One 運営者)
母がマンション2棟を経営。その管理を間近で見てきた経験から賃貸管理SaaS『大家One』を開発・運営しています。
私の母は、マンションを2棟経営する個人大家です。父が始めた賃貸経営を引き継ぎ、長年一人で家賃の管理や入居者対応、修繕の判断をこなしてきました。ところがここ数年、母が高齢になるにつれて、契約書の整理や入金確認のような細かい事務が年々負担になっていく様子を、子として間近で見てきました。「もし母の判断力が急に落ちてしまったら、この2棟はどうなるのだろう」——そう考え始めたのが、私が賃貸管理の課題に向き合うきっかけでした。
この記事では、高齢の大家さんご本人、そしてご両親が賃貸経営をされている子世代の方に向けて、高齢の大家が直面しやすい賃貸経営リスクを整理し、認知症による資産凍結や相続時の「争族」を防ぐための備えを、公的機関の情報をもとに解説します。
高齢の大家が直面する具体的リスク
1. 判断能力の低下による「資産凍結」
最も見過ごされがちなのが、加齢に伴う判断能力の低下です。厚生労働省の研究班による将来推計では、認知症の高齢者は2040年に約584万人(65歳以上のおよそ7人に1人)に達すると見込まれています。また総務省統計局によれば、2025年時点で65歳以上人口は総人口の29.4%と過去最高を更新し、2040年には34.8%まで上昇する見通しです。大家さん自身が認知症などで判断能力を欠くと判断されれば、原則として本人だけの意思で新規の賃貸借契約締結、大規模修繕の発注、物件の売却といった法律行為ができなくなります。銀行口座も本人の意思確認ができないという理由で、家賃収入の入出金すら制限されるケースがあります。これがいわゆる「資産凍結」で、家族であっても代わりに手続きを進められない点が実務上の大きな壁になります。
2. 日常管理業務の身体的・精神的負担
物件が2棟、3棟と増えるほど、家賃の入金確認、滞納者への連絡、退去立ち会い、修繕業者の手配など日々の作業量は積み重なります。若い頃は苦にならなかった紙の書類整理や電話対応も、加齢とともに大きな負担になっていきます。私の母も、契約更新の時期管理や領収書のファイリングに毎月かなりの時間を取られていました。
3. 入居者の高齢化と孤独死・残置物のリスク
賃貸経営のリスクは大家自身の高齢化だけではありません。入居者側の高齢化・単身化も進んでおり、内閣府の推計では孤立死(死後8日以上経過して発見されるケース)が年間2万件超にのぼるとされています。入居者が孤独死した場合、相続人の特定や残置物(家財)の処分、契約解除の手続きは大家にとって精神的にも実務的にも重い負担です。こうした背景から国土交通省と法務省は、単身高齢者の入居時に受任者へ死後の契約解除・残置物処理を委任しておく「残置物の処理等に関するモデル契約条項」を令和3年に策定しました。国土交通省のサイトでは活用ガイドブックや契約書式が公開されており、高齢入居者を受け入れる際の実務的な備えとして活用が広がっています。
4. 滞納・クレーム対応の見落とし
判断や体力に余裕がなくなると、家賃滞納の初期対応が遅れたり、入居者からのクレームへの返信が漏れたりしがちです。滞納は放置するほど回収が難しくなり、クレームの放置は入居者トラブルの深刻化や退去につながります。「気づいたら3ヶ月滞納していた」「クレームの電話に出られず関係がこじれた」という声は、高齢の大家さんから実際によく聞かれます。
5. 書類・お金の管理ミス
契約書、重要事項説明書、火災保険証券、確定申告書類などが紙のまま複数の場所に分散していると、いざという時に必要な書類が見つからない、家賃の入金と請求の突合(消込)が合わない、といったミスが起こりやすくなります。判断力が万全なうちは気合いでカバーできても、加齢とともにその負荷は確実に増していきます。
認知症になると賃貸経営はどうなるのか
契約・修繕・売却が「本人だけでは」できなくなる
前述の通り、認知症などで判断能力が失われたと医学的・法的に判断されると、賃貸借契約の締結・更新、大規模修繕の発注、物件の売却といった法律行為を本人単独では行えなくなります。家族が代理で契約書に署名しても、法的な効力を争われるリスクが残ります。この状態を放置すると、空室が出ても新しい入居者と契約を結べない、老朽化した設備を修繕できない、といった形で賃貸経営そのものが立ち行かなくなる恐れがあります。
成年後見制度という備え——ただし制約も大きい
判断能力が低下した後の対応策として法律上用意されているのが成年後見制度です。裁判所の説明によれば、判断能力の程度に応じて「後見」「保佐」「補助」の3類型があり、家庭裁判所が選任した後見人等が本人に代わって財産管理や契約行為を行います。法務省も同制度を「判断能力が十分でない方の権利を守る援助者を選ぶことで、本人を法律的に支援する制度」と説明しています。
ただし注意が必要なのは、成年後見はあくまで本人の財産を「守る」ための制度である点です。積極的な資産運用や相続税対策を目的とした売却・建て替えなどは、家庭裁判所が本人の利益にならないと判断すれば認められないことがあります。また一度開始すると、判断能力が回復するか本人が亡くなるまで原則として途中でやめることができません。「うちの親も心配だから」と安易に申し立てる前に、この制約は理解しておく必要があります。
判断能力が「あるうち」に使える家族信託
そこで近年注目されているのが、家族信託(民事信託)という仕組みです。法務省が公表しているパンフレットでも、国民が認知症などに備えて財産管理を行う際に、親族間での信託の利用が有効な選択肢になると説明されています。家族信託は、大家さん本人が元気なうちに、信頼できる家族(多くは子)に物件の管理・処分権限をあらかじめ託しておく契約です。成年後見と異なり、家庭裁判所の許可を都度得る必要がなく、賃貸借契約の締結や修繕発注、必要に応じた売却まで、信託契約で定めた範囲で柔軟に進められる点が実務上のメリットとされています。ただし契約設計を誤ると税務上・法律上のトラブルにつながるため、司法書士や弁護士など専門家の関与が欠かせません。
相続で共有名義にすると「争族」になりやすい
大家さんが亡くなった後、複数の子が物件を共有名義のまま相続してしまうケースも要注意です。共有不動産は、売却や大規模修繕、建て替えといった重要な判断に共有者全員の同意が必要になるため、意見がまとまらず物件の活用が止まってしまうことが少なくありません。さらに共有者の一人が亡くなると、その持分がまた複数の相続人に分かれる「数次相続」が発生し、権利関係はどんどん複雑になっていきます。放置すればするほど関係者が増え、いわゆる「争族」化のリスクが高まるのが共有名義の怖さです。2024年からは相続登記も義務化されており、名義を放置すること自体のリスクも大きくなっています。誰か一人が代表して単独名義で引き継ぐ、あるいは代償分割で公平を図るなど、早い段階で分割方針を決めておくことが望ましいでしょう。
元気なうちにやるべき3つの対策
1. 後継者と早めに管理を「共有」する
判断能力が完全に失われてから後継者に引き継ぐのでは遅すぎます。元気なうちから、子など後継予定者に物件の状況・契約内容・取引金融機関などを共有し、一緒に管理する期間を設けることが、資産凍結にも争族にも効く最大の予防策です。
2. 管理のデジタル化・見える化
紙の台帳や記憶に頼った管理は、大家さん本人にとっても後継者にとってもブラックボックスになりがちです。契約情報・家賃の入出金・修繕履歴をクラウド上で見える化しておけば、大家さん自身の負担が減るだけでなく、いざという時に家族がすぐに状況を把握でき、成年後見や家族信託の手続きを進める際の資料としても役立ちます。
3. 専門家への早めの相談
成年後見制度の申立て、家族信託の契約設計、共有名義の解消や相続対策は、いずれも司法書士・弁護士・税理士など専門家の個別具体的な判断が必要な分野です。本記事はあくまで一般的な情報提供であり、実際の対応は必ず専門家にご相談ください。特に判断能力に不安が出てきた場合は、早めに司法書士会や弁護士会の相談窓口、お住まいの地域包括支援センターなどに相談することをおすすめします。
おわりに
母の賃貸経営を間近で見てきて感じるのは、高齢の大家が抱えるリスクの多くは「気づいた時にはもう対応が難しい」という時間差にあるということです。判断能力が落ちてからでは、成年後見という重い手続きしか選べなくなります。相続が発生してからでは、共有名義の解消は容易ではありません。だからこそ、元気で判断力が確かなうちに、後継者との情報共有・管理の見える化・専門家への相談という3つの備えを進めておくことが、大家さん自身にとっても、引き継ぐ家族にとっても、最も現実的な安心につながります。
私たちが開発している賃貸物件管理SaaS「大家One」は、こうした一次体験から生まれました。契約・入金・修繕といった管理業務をクラウドで見える化し、高齢の大家さんご本人はもちろん、いざという時に後継者となるご家族もスムーズに状況を把握できることを目指しています。まずは今の管理状況を見える化するところから、次の世代への引き継ぎの一歩を踏み出してみませんか。
参考にした情報源
- 総務省統計局「統計トピックスNo.146 統計からみた我が国の高齢者」
- 裁判所「成年後見制度(後見・保佐・補助)の概要を知りたい方へ」
- 法務省「成年後見制度・成年後見登記制度」
- 法務省「残置物の処理等に関するモデル契約条項(ひな形)の策定について」
- 国土交通省「残置物の処理等に関するモデル契約条項」
- 厚生労働省「認知症及び軽度認知障害(MCI)の高齢者数と有病率の将来推計」
- 内閣府「孤立死者数の推計」
- 法務省「信託制度のパンフレットの公表について」
※本記事は情報提供を目的としたものであり、法律・税務・医療に関する個別具体的な判断は、司法書士・弁護士・税理士・医師などの専門家にご相談ください。
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